グーグーだって猫である


グーグーだって猫である

グーグーだって猫である


2,3年前、大学の図書館で本の旅人を見つけてこの漫画と出合った。猫が好きな事も相俟ってどんどんと作品にのめり込んで、書店で目にしそのままcashierへと向かった。

死んでしまった猫の寂しさの為に、毎日散歩しペットショップを何気なく回っていた。ある時、ペットショップに行ったらアメリカンショートヘアの本当に小さな子猫に出会い、その小ささを気遣って受け入れることにした。

こう始まるこの漫画は、猫と飼い主の日記形式で書かれている(時は前後するけど)。こんな事が書かれていた。

著者が猫の好きな知人に「猫のエサ何あげているの?」。すると知人は一間おいてこう答えた。「ごはんは缶詰とか煮干とかドライフードを混ぜてあげているの」と。

何故知人は一瞬間をおいたかというと、『著者が発した言葉を猫に対して乱暴に扱ったからだ』と著者は述べていた。


自分と同じように感情を持っていて、同じように生きている(猫や人間、etc...)に対してぞんざいな言葉使いをしている現代の人々は、この本のこの回を読んでどう思うのか?へっ、そんなの、ど〜でもいいやと言って、愛する人や、友人に間違った言葉を届け続けるのだろうか?


と、詩や文を書く時の言葉の選定の難しさ、言葉自体の難しさを想起し痛感しながら考えた。