naanのけんすけさん その2

悪い意味で、自分を大事にしすぎていた。

もっと、ほっぽりだすくらいの度胸と勇気がなくては。

幼児が自分の指をしゃぶるのは、
母親の乳首への哀愁だという。

それは、かつて「在った」ものへの哀愁であり、
捨て去るには時間がかかる。


小生が離島に住みついて2ヶ月が経った。


東京に住んでいた時は、観葉植物が好きだった。
部屋に1つは「草木」がないと、
息苦しい感じがするからだ。
極貧の学生時代ですら、
食費を削ってでも観葉植物を買っていたものだった。

それがなぜか、ここ離島に来てからは一向に、
観葉植物を部屋に飾ろうとは思わない。
言うまでもなく、
部屋の外には腐るほど草木があるからだ。

カエルに至っては、
腐るほどいて、死んで、腐っている。

かつて東京にも草木はたくさんあった。
江戸後期の開国後に、
訪日したお雇い外国人が驚愕したほどの草木が。

始めから無かったのならともかく、
かつて「在った」ものが無くなるというのは、
ツライものだ。

現代人が部屋の中で、犬(ペット)を飼うのは、
かつては野良としてどこにでもいた、
犬(動物)への哀愁だと思う。

ネズミの存在が迷惑なこの島では、
ハムスターを飼おうなどと夢にも思わない。

犬(ペット)に服を着せるのは、
男性よりも女性に多いと思うのだが、
これは周りに子供がいなくなったが故の、
行き場のない母性本能なのではあるまいか?
自分の子供でなくても、周りに子供がたくさんいれば、
服を着せる機会も多くなるだろうし、
わざわざ手間ヒマかけて、犬に服を着せようとは
しないのではないか?

現代社会の歪んだ風習は、
それ自体は悪いことではなくて、
かつて「在った」ものへの歪んだ哀愁なのだと思う。

対象への愛着が過度になれば、
それは歪む。
それがすでに「無くなった」ものならば、
なおさらだ。

自然も動物(ペット)も、少子化の子供も、
とかく神格化されやすい。
「物」と言っては語弊があるが、
物(自然・動物・子供)なんて、
無造作にそのへんに転がってるのが本来の姿で、
無造作とは、その辺に転がって死んでいるものであり、
「物」が「神」になってはいけないのである。

同じように、人生というものは、
大事に扱い過ぎてはいけない。

大事に扱おうとするのは、
すでに人生が「無くなって」しまった証拠だろう

私は自分の人生を大事にしすぎることを恐れている。

from ただのこばなし

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